今回で最終回です。(前回の記事「公私混同のすすめ? – 脱お役所仕事(2)へのリンク)
前回の終わり方だと、仕事でも個人アカウントを使え!というような書きぶりだったので、「本当??」と思われた方も多いのではないかと思います。
公私混同のすすめ? – 脱お役所仕事(2)より
でも、まだ反論はありそうです。それなら個人のアカウントでなく仕事用のアカウントを作成して、個人のアカウントは仕事中使うべきでない、と。
で、第3回も結論から先に言うと、個人のアカウントを推奨したい。
では、その理由を、、、
公私混同を事例で考えてみる
Facebook等の仕事中の利用が、いいか悪いかを議論する前に、次のことを考えてみましょう。
- 会社の携帯電話を仕事中に使うことはいいの?
おそらくこれに異論がある人はいないはず。前回の記事でも書きましたが、昔は携帯で話していても遊んでいるような印象があった時代もありました。会社の携帯であれば大手を振って話ができます。これが仕事でなくて遊び(私用)なら話は別。ここにも異論はないはずです。
では次のケースはどうでしょうか?
- 自分の携帯電話を仕事中に使うことはいいの?
ここは意見が分かれそうですね。
会社の用事を自分の携帯電話という私物でするなんて、、、という意見と、何で自分の携帯を会社のために使わなければいけないの?という両方の意見。
では、パソコンならどうでしょうか?
- 自分(個人)のパソコンで仕事をすることは?
私もサラリーマン時代、自分のパソコンを持ち込んで仕事をしてました。会議でのメモ取りをするには、会社で設置されたノートPCではちょっと大きすぎて(それでも当時、デスクトップPCでなく、ノートPCを配布していたのは画期的でした)、機動性もない。ならば、メモ帳がわりに自分のノートパソコンを持ち込もう、という具合にです。
これはダメなんじゃない?という意見が多そうですが、仕事をしていると、自分のノートをつくられている方もいるのでは?そういうメモ帳やノート、自分のを使ってないですか?
では、似ているようで逆のパターン
- 会社のパソコンで自宅で仕事をすることは?
以前は持ち帰り残業なんていうのも当たり前、なんて時代もありましたが、今ではセキュリティを理由に会社のパソコンを持ちだすことはダメ!というところが増えていると思います。同時に、家で残業するなんて、とんでもない!なんていう風潮が多勢を占めるようになってきました。
一見違うように見えるこの二つ、実は似ているところもあって、もしこれがノートパソコンでははく、ノート(紙の)だったら、意見がかなり変わるのではないのでしょうか?ノートくらいなら自分で買ってきて仕事を覚えなきゃ、、、とか、メモをとらなきゃ、、、なんてしているはず。システム手帳などもそうですよね。これを会社から支給しろ!という人はいないはず。
逆に、そのノートや手帳を会社から支給されて、それをいちいち会社において帰る人も珍しいのかもしれません。
メールはどうでしょうか?電話に似てますね。
- 自分のメールアドレスで仕事のやり取りをすること。
私もかつてサラリーマンをしていた時代は、仕事で自分のプライベートな携帯番号を教えたり使うなんてとんでもない、と思っていましたし、パソコンは仕事で使うなら、職場であてがわれるべきだと考えていました。プライベートなメールアドレス・電話番号で仕事のやり取りをするなんてとんでもない!なんて考えてました。(もちろん上司からもそういわれてきました。)
以上のように、仕事に関連するものは全て会社から提供されたもので処理をする。
これを徹底していくと、当然仕事で必要なスキルは会社から提供されてしかるべきということになりますし、そのスキルがなければ会社が費用を払って研修をする。
もし自分が仕事の効率アップのために自己啓発したのであれば、その費用も会社に弁償するように請求できることになります。
私的な資産は会社の仕事に持ち込んではいけないとすると、自分自身の脳や思考(これを知識と呼ぶなら・・・)も私的なもの?
これを究極実現していくと、この仕事って「私」である必要なんてないのでは?
いずれ、意思をもたないロボットが代わりをしてくれる日も遠くなさそうです。
極論はさておき、ここから本題。
適当に仕事ができなくなった時代
仕事はいつから、こんなに、細かい規則規則でがんじがらめになってしまったんでしょうね。
昔は、いい意味、適当(「適当」であって「テキトー」ではない)な仕事の仕方をしていた時代がありました。ちょっと子供の迎えが必要なんで抜けてくるね、、、って言って小一時間ほど仕事を抜けてしまうパターン。それでも、仕事がきっちりできていればOKだった時代もあったはず。職場がそれを許してくれる時代がありました。
工場が大型化し、ライン化し、仕事がマニュアル化し、時給化してから、工学的な意味での効率化は達成できましたが、フレキシビリティー(柔軟性)を大きく失ってしまった気がします。
そして、工業規格化された労働は均質さを提供することにはなりましたが、代わりに、人としての個性を奪い取ってしまいました。
昔は、この製品を買わなきゃ、、、ではなく、「あそこの店で買わなきゃ」「あの人から買わなきゃ」という人と人とのつながりで成り立っていたビジネスが、大量生産・大量消費が出現し、製品だけを見るように。それに拍車をかけたのもインターネットの出現だと思うのですが、、、
これは「物」を売っている時代であればよかったのですが、現在のサービス体系はどうでしょうか?物理的な「品物」を販売しているというよりは、それに付帯する「サービス」、つまり価値を売っているというケースがほとんどです。
組織を構成するのは人、サービスを提供するのも人
行政機関などはまさにそうで、地域の総合サービス業であると思うのです。
そうした場合に顧客が一番重視するのが、
それを提供してくれる「人」
この「人」が見えないことには、お客さんは満足してくれないのではないでしょうか。それは価値を提供しているから(経営の言葉を借りるなら、バリュープロポジッションの考え方。)でもあり、サービスをつないでいくのも人。
そう考えると、Facebookやツイッターなどの個人アカウントをどう使うかという問題についても、割と簡単に整理できます。組織ごとに情報規則をつくるべき!という意見もあるので、それぞれの組織を尊重するとして、その規則をつくる際に、個人アカウントであっても、業務時間中は仕事に関する書き込み呟きを、時間外にはプライベートを、、、など。ただし、前回書いたように、これらはFacebookだけに限った話ではなく、パソコン・携帯なども含めた情報全般の問題。
実際、Facebookを組織で運用する場合、好感がもてるのは「個人」がよく出ているサイト。これはホームページでも同じですが、法人は組織であって「人」ではないのです。誰がやっているのかというのは結構重要な情報であるはず。
一方で、大きな会社やお役所でFacebookページやホームページを立ち上げた場合、個人を出したくないという感情が働きます。「仕事は個人でやってるんじゃない、組織でしてるんだ」がサラリーマン時代の上司たちの口癖でしたが、継続性や公平性を盾に、個人への責任回避のように聞こえてしまうことも事実。
ここに個人の顔が見えないと、情報の受け手は安心もできませんし、信頼することなどそれ以前の問題になってしまうはず。信頼の礎(いしずえ)はやはり個人と個人と信頼関係で成り立っているのであり、組織の弊害が指摘される昨今、ますますその重要性は高まっていると感じています。結局組織を作っているのは個人ですから、、、
ちょっと前にNHKや警視庁のツイッターのゆるいツイートが話題を呼びましたが、これらも「個人」がよく見えていたからこそ。
顔が見えるから「Face」book!
ソーシャルキャピタルなんていう言葉も最近よく聞かれるようになってきましたが、「絆」も人と人がつながってのこと。その「絆」から、お役所自身が公平を理由に抜けてしまうのは、食物連鎖から「人間」だけ除外してしまうのにちょっと似てる気がします(自分の過去の働き方に対する反省の念です。)。
そういう部分を考えるなら、お役所の人たちにも、もうすこし「顔」の見える仕事をして欲しいな、、、と一住民として切に願います。
なにせ、「Facebook」ですからね(^^;
かつてお役所勤めしていた自分でないと、なかなかこういう辛口意見は書きにくいと思いますので、そういう思いも込めて、かつ、過去の自分の働き方に対する反省の念も込めて、少し提案めいたブログの記事となりました。読んでいただきありがとうございます。